単純さと深さ

古書のコレクターとして知られている鹿島茂氏の展覧会が練馬区立美術館で開かれている。
「バルビエ×ラブルール アール・デコ、色彩と線描イラストレーション」
近いうちに観にいこうかなと思っています。

その鹿島茂氏の吉本隆明さん
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一人の思想家の偉大さというのは単純さと深さにある。
単純だけれどもその底は限りなく深く、文字通り「底知れない」というのでなければ
「偉大なる」という形容詞を被せることはできない。
 吉本隆明の「単純さ」、それをひとことで言えば、幸福追求の徹底的肯定、これである。
彼の壮大な理論はすべてここから演繹されている。
                               『さようなら吉本隆明』
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# by origa-56 | 2012-05-19 06:44

似てる!

「ラボラトリーってなに?」

「えっ、あぶらとり?」

なんか似てるなあ。



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# by origa-56 | 2012-05-18 09:24

木下杢太郎 『和泉屋染物店』


この作品が雑紙「スバル」に掲載されたのが明治44年3月。
大逆事件で幸徳秋水、大石誠之助がらが捕らえられたのが前の年の43年6月

数年前、伊東にある木下杢太郎の生家を訪ねたことがある。
和泉屋染物店はこんな雰囲気だったのかと思った。


この戯曲全体は江戸の情調を色濃く漂わせている。
そんな雰囲気のなかで追われる身の幸一が父親に言う。


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  世界が違ふのです。お互いに理解しないのです。暗い夜の世界から私は初めて明るい世界を
  見たのですね。いやまだ暗いのだ。それでそこをもつと良い所にしようと、皆血と汗を流し
  て働いて居るのだ。いやさうではない。まだ中々真暗だ。地獄の洞のやうに暗いのだ。
  もっとどっさり血をながさなければ明るくはなりはしないのだ。それでもその地獄の洞に小
  さい孔を見出したのだ。積り積つた人の思が厚い洞の壁に孔を明けたのだ。其孔から明るい
  外が見えたのだ。もつと廣い、廣い金色にひかった海の表面が見えたのだ。その海の向ふに
  本当の都があつたのだ。さうです、その世界へ。廣い、廣い、緑色の世界へ、私達は行かな
  けりやならないのです。
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病身の父親は「幸一、お前は気が狂つたのか」とさけぶ。

維新の志士たちも同じような思いを持って父親と対立したに違いない。
旗印がまたはイデオロギーが尊皇攘夷か、社会主義かのちがいはあろうとも。

こういう叫びが持てなかったのが大正時代を迎える若者たちだったのか、と考える。
それはひょっとして平成時代を迎える若者たちの思いとつながっているのでは、と考える。



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# by origa-56 | 2012-05-17 05:02 | 大逆事件

野口雨情の「赤い靴」

この歌には思い出がある。
異人さんを「良いじいさん」 ある人は「偉人さん」と思っていた。
また どうして異国にいくと青い目になってしまうんだろう。と不思議に思った。

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赤い靴
はいてた 
女の子
異人さんに
つれられて
行っちゃった

横浜の
埠頭から
汽船に乗って
異人さんに
つれられて
行っちゃった

今では
青い目に
なっちゃって
異人さんの
お国に
いるんだろう

赤い靴
見るたび
考える
異人さんに
逢うたび
考える

生まれた
日本が
恋しくば
青い海眺めて
ゐるんだらう
異人さんに
たのんで
帰って来


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# by origa-56 | 2012-05-16 19:56 | 大正時代の唱歌・童謡

野口雨情の童謡

唄ってみた。

雨降りお月さん

雨降りお月さん 雲の蔭
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
ひとりでからかさ さしてゆく
傘ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン 鈴つけた
お馬にゆられて 濡れてゆく

いそがにゃお馬よ 夜が明ける
手綱の下から ちょいと見たりゃ
お袖でお顔を 隠してる
お袖は濡れても 干しゃ乾く
雨降りお月さん 雲の蔭
お馬にゆられて 濡れてゆく

(1925 (大正14年)「コドモノクニ」に発表  作曲 中山晋平)

十五夜お月さん

十五夜 お月さん
御機嫌さん
婆やは おいとま
とりました

十五夜 お月さん
妹は
田舎へ貰られて
ゆきました

十五夜 お月さん
母さんに
も一度 わたしは
逢いたいな

(1920(大正9年)「金の船」に発表 作曲 本居長世
 

しゃぼん玉

しゃぼん玉 飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた

しゃぼん玉 消えた
飛ばずに消えた
生まれてすぐに
こわれて消えた
風 風 吹くな
しゃぼん玉 飛ばそ

(1922(大正11) 「金の塔」に発表 作曲 中山晋平


証城寺の狸囃子
証 証 証城寺
証城寺の庭は
ツ ツ 月夜だ
みんな出て 来い来い来い
おいらの友達ア
ぽんぽこぽんのぽん
 
負けるな 負けるな
和尚さんに負けるな
来い 来い 来い 来い来い来い
みんな出て 来い来い来い

証 証 証城寺
証城寺の萩は
ツ ツ 月夜に花盛り
おいらは浮かれて
ぽんぽこぽんのぽん

(1924(大正13年)「金の星」に発表 作曲 中山晋平)


青い眼の人形
青い眼をした
お人形は
アメリカ生まれの
セルロイド

日本の港へ
ついたとき
一杯涙を
うかべてた
 
「わたしは言葉が
わからない
迷子になったら
なんとせう」

やさしい日本の
嬢ちゃんよ
仲良く遊んで
やっとくれ


(1921(大正10年)「金の船」に発表 作曲 本居長世)
# by origa-56 | 2012-05-16 04:42 | 大正時代の唱歌・童謡

スナックえんどう

スナップえんどうと思っていたら
ある八百屋さんでは「スナックえんどう」という名前になっていた。
どちらが正しいのか。
それとも両方ありなのか?
# by origa-56 | 2012-05-15 13:01

マッチ箱

右のポケットにはいつもマッチ箱ひとつ。
# by origa-56 | 2012-05-15 08:23

鈍感

いやに尖った声だったなあと気がついたのはそれから2年たった後だった。
# by origa-56 | 2012-05-15 08:22

古本

古本を買って読んでいたら
こんな紙片が挟んであった。
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平成二年一月二十三日、読み始める。
上野に行き、帰りは風子の家に寄る。
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# by origa-56 | 2012-05-14 21:12

大逆事件と大石誠之助

大正時代を語るときにあの大逆事件を避けて通ることはできない。
近代日本を考えるときにこの事件で立ち止まってしまう。自分でも整理できないままに
通ってきてしまったが、本当に立ち向かわないとなにもわからないぞ、と思うように
なってきた。一昨年新宮を訪れたときにその思いがますます強くなっていった。
新宮市観光協会のHPにある大逆事件の文を読むと新宮市にとってもいまだに深い蔭を
落としているのがよくわかる。


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大逆事件と新宮 (新宮市観光協会HPより 写真・折金)

速玉大社駐車場から大橋通りに向かって船町を歩くと、スギウラ印刷さんの前に明治末の“大逆事件”に連座され犠牲となった「大石誠之助宅跡」の小さな標石がある。

そもそも大逆事件とは、明治43年(1910年)、多数の社会主義者・無政府主義者らが、明治天皇の暗殺容疑で検挙され、大逆罪の罪により24名が死刑または無期懲役に処せられた事件。
この地域からは「新宮(紀州)グループ」として大石誠之助(新宮・死刑)、成石平四郎(請川・死刑)、高木顕明(新宮・無期懲役)、峯尾節堂(新宮・無期懲役)、崎久保誓一(三重県市木・無期懲役)、成石勘三郎(請川・無期懲役)の6人がでっち上げの容疑で犠牲になった。

*大逆罪(昭和22年刑法改正で廃止)=刑法73条:天皇(皇族)ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加エントシタル者ハ死刑
二処ス

当時、日本は明治維新により資本主義時代に入り、天皇が国家主権をにぎる君主制の中、「富国強兵」軍国主義の道を進んでいた。日本は国策として海外に生命線を求める政策により、日清、日露戦争へと突き進んでいった。

これに対し社会主義者たちは日露戦争、朝鮮侵略に断固反対する闘争を展開。明治37年~38年の日露戦争は勝利したが、戦後の国内状況は財政難で増税、不景気、汚職事件、国債の膨大な累積など政治経済のあらゆる面で矛盾が噴出していた。

そんな中、社会主義運動に対する取締りも更に強化された。明治43年6月、信州明科の宮下太吉らと共謀し、爆裂弾で天皇襲撃を企てたとして、国内社会主義運動の最高リーダーでもあった幸徳秋水ら7名が逮捕された。社会主義者の陰謀事件とされた「信州爆裂弾事件」はこれにより一件落着と思われたが、時の国家権力機構は、この事件を幸徳秋水を首領とする全国的な一大陰謀事件にフレームアップした。

これは社会主義勢力の撲滅をはかった国家的犯罪である。幸徳秋水逮捕6日後、東京よりはるか離れた新宮に飛び火した。連携者として新宮在住の大石誠之助が逮捕された。検察側は、明治41年7月郷里高知で静養中の幸徳秋水が上京する途中、主な同志に天皇暗殺の同意を得たものとした。

7月25日、新宮の大石宅に着き、8月8日まで滞在した。この間、熊野川で川遊びをしたり、演説会などをして過ごした。検察では、これを瀞八丁で月見をしながら船中で爆裂弾を作る密談をしたとなる。実際は昼間であり、場所は亀島、御船島付近でエビ採りに興じていた。

11月19日、大石誠之助は遊びをかねて上京し、いつものように本や医療道具を探し、幸徳秋水を訪ねた。その時の冗談交じりの雑談が命取りとなった。「こうなったら同志を集め、町中に火を放ち、さらに二重橋におしかけて米蔵を開かせ、貧民に分けてやろう。」社会主義弾圧の中、手も足も出なくなった同志たちは、ストレス解消のうっぷんばらしにこのような冗談をよく言ったに違いない。

12月1日、誠之助は帰路大阪に立ち寄り、大阪の同志にそのうっぷんばらしの話をする。これが検察によると、話を聞いた3人は決死の士となることに同意した、となる。

あけて明治42年1月22日、新年会をかねて集まった新宮グループ5人に誠之助は東京の土産話をする。検察側はこれも同様に5人を招集して、5人に決死の士となることを同意させたとなる。

第1回公判は明治43年12月10日に非公開の秘密裁判として行われ、翌明治44年1月8日、早くも判決が出た。判決は24名が死刑、2名が懲役11年と8年であった。翌日、陛下の思し召しにより24名中12名が無期懲役の減罪となった。

判決の結果を被告・誠之助は「嘘から出た真である。人生は要するにこんなものであろうと思う。」と述べたという。誠之助は間際まで無罪を信じていたことがうかがえる。この結果は内外に大きな衝撃を与え、米英仏などでは抗議運動などが巻き起こった。

一方、新宮では、新宮町より3名もの大罪人を出したのは至尊にたいし恐懼に耐えずとして議員、区長らが協議し、謹慎の誠意を示すと報じられた。

大逆事件の弁護を担当した作家で弁護士の平出修は、この事件は後に日本の思想史上に最も重要な事項となるであろうから、として裁判記録、弁護メモなど貴重な資料を残していたのである。

新宮市では平成13年、市議会で大逆事件の犠牲者たちの名誉回復と顕彰することが決議された。

新宮生まれの大石誠之助は、同志社英学校等を中退後渡米、オレゴン州立大学医科を卒業。アメリカ帰りの医師として明治29年(1,896年)新宮で開業した。誠之助は大石ドクトル、毒取る先生と呼ばれ、貧しい人からはお金を取らず、町の人からは赤ひげ先生のように感謝された。大逆事件公判開始の記事にも誠之助については「被告中の一異彩なり・・・医は仁術なりの古風を学び謝礼金のみに止めて薬料の如きは貪らざるの主意なり・・・」とある。また、「顎鬚黒く品位ありその声さへ落着いているは医を業とする大石誠之助」と報じられている。医師であるとともにクリスチャンであり、優れた文化人であった。また禄亭と号し雑俳の大家でもあった。

「米の値に太き吐息をつきながら細き煙もたたぬ貧民」
「身のもてぬ人は廓(くるわ)でもてるなり」
「恋の坂登りつめ運下り坂」などがある。

誠之助は、西村伊作の叔父にあたり、伊作も誠之助より思想的な影響を強く受けた。大逆事件では、伊作も捜査をうけた。叔父誠之助が東京に護送されたとき、オートバイで東京に向かったという激情派である。

与謝野寛(鉄幹)と佐藤春夫は、誠之助が処刑された時、彼を悼む詩を書いた。

与謝野寛
 大石誠之助は死にました。いい気味な、機械に挟まれて死にました。人の名前に誠之助は沢山ある。然し、わたしの友達の誠之助は唯ひとり。わたしはもうその誠之助に逢われない。なんの構うもんか。機械に挟まれて死ぬような馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の誠之助。それでも誠之助は死にました。おぉ死にました。日本人でなかった誠之助。立派な気ちがいの誠之助。有ることか、無いことか、神様を最初に無視した誠之助。大馬鹿な誠之助。ほんにまあ、皆さん、いい気味な。その誠之助は死にました。誠之助と誠之助の一味が死んだので、忠良な日本人は之から気楽に寝られます。おめでとう。

佐藤春夫≪愚者の死≫
 1,911年1月23日、大石誠之助は殺されたり、げに厳粛なる多数の規約を裏切るものは殺されるべきかな。死を賭して遊戯を思い、民族の歴史を知らず日本人ならざる者、愚なる者は殺されたり「嘘より出でし真実なり」と絞首台の一語その愚を極めむ。われの郷里は紀州新宮、渠の郷里もわれの町。聞く渠が郷里にしてわが郷里なる紀州新宮の町は恐懼せりと、うべさかしたる商人の町は嘆かん。町民は慎めよ。教師らは国の歴史を更に説けよ。

二人の詩は、当局の目をくらますために風刺詩として書かれている。大石誠之助を思う気持ちが痛いほど伝わる詩である。新宮に暮らす人々にとって、長い間、大逆事件は暗い影を残してきました。大逆事件の裁判が終わろうとしている頃、秋水は「思うに百年の後、誰かが私に代わっていってくれるだろう。」と手紙に残している。富国強兵の侵略時代に堂々と戦争は罪悪と説いた彼らの思想が今なら当たり前なのに・・・
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                          猫メール→ origanmeister@gmail.com

# by origa-56 | 2012-05-13 19:42 | 大逆事件

高校教科書の大正時代

今回私に与えられた課題は「大正時代」です。
そこで高校の教科書ではこの時代をどのようにとらえているのかを出発点にしたいと思っています。
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大正から昭和初年の文化で目立つ現象は、都市化と大衆化が急速にすすんだことであった。
工業の発展は人口の都市集中化を招き、東京・大阪を中心に市民の生活様式が大きくかわった。

住宅地域は近郊に広がり、電灯・水道・ガス施設をそなえた和洋折衷の文化住宅に住むサラリーマンが、洋服姿で郊外電車にのり、乗合自動車(バス)や市電にのりかえ、鉄筋コンクリート造の官庁や会社に出勤する風景が日常的になった。職業婦人としての女性もふえ、タイピスト・電話交換手、バス・市電の車掌などが花形の職業となった。

文化の大衆化は、教育の普及やジャーナリズムの発達、さらにはラジオ放送の開始などですすんだ。

文学では、耽美的な作風で知られる永井荷風、新思潮派とよばれる芥川竜之介、人道主義を特色とする白樺派の作家たち、さらには新感覚派とよばれる川端康成らが多くの読者を獲得した。

また新聞・雑誌に連載された大衆小説も愛好された。社会問題を扱ったプロレタリア文学も大正末年におこっている。知識層は1冊1円で円本とよばれた文学全集やさらに安価な文庫本を読み、帝国劇場や築地小劇場だどで新劇を楽しみ、文展を継承した帝展(帝国美術院展覧会)、日本美術院の院展などに出かけては近代絵画を鑑賞した。

映画や学生野球なども広く市民に親しまれ、急速に広まっていった。

学問研究では、人文科学では自由主義的・実証的研究がおこなわれ、独自の哲学体系をうちたてた西田幾太郎、天皇機関説をとなえた憲法学者の美濃部達吉、民俗学を確立した柳田国男らが輩出した。

また、マルクス主義が知識層に強い影響をあたえたことは特筆されよう。一方、自然科学の分野では、黄熱病の研究で知られる野口英世らが世界的な名声を得た。

(『高校日本史』山川出版社 より)
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そこには、大正時代の精神そのものの萩原朔太郎や北原白秋、野口雨情は登場しません。
この教科書の通りに話を深めていっても大正時代はすり抜けていってしまいます。
          
                                      猫メール → origanmeister@gmail.com
# by origa-56 | 2012-05-12 18:34 | 大正時代

日本とアールデコ

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東京都庭園美術館(旧・朝香宮邸・東京都港区白金台)
朝香宮鳩彦王夫妻はパリのアール・デコ博で本場の装飾芸術にふれ、フランスのデザイナー、アンリ・ラパンを起用して邸宅を建設した。日本に現存する代表的なアールデコ建築である。内装もフランス直輸入のものを用いている
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21日からフランス・アールデコ全盛期の書物・挿し絵の展示会「鹿島茂コレクション2」を観に
いこうと計画、その折にこのアールデコ建築・庭園美術館を見学しようと思っていたが、
現在改装中とのことで残念。

数年前、辰野金吾の旧万世橋駅の遺構を訪ねた。万世橋の上にあったこの柱もアールデコ建築のひとつとか。

# by origa-56 | 2012-05-12 17:45 | 大正時代

日本とアールヌーヴォー

日本とアールヌーヴォー
日本の木版画(浮世絵)、とりわけ葛飾北斎の諸作品はアール・ヌーヴォーの語彙の形成に強い影響を及ぼした。1880年代から1890年代にかけてヨーロッパを席巻したジャポニスムはその有機的なフォルム、自然界の参照、当時支配的だった趣味とは対照的なすっきりしたデザインなどで多くの芸術家に大きな影響を与えた。

エミール・ガレやジェームズ・マクニール・ホイッスラーといった芸術家が直接取り入れたのみならず、日本に着想を得た芸術やデザインはサミュエル・ビング(パリ)やアーサー・ラセンビー・リバティ(ロンドン)といった商人たちの店によって後押しされた。ビングはアール・ヌーヴォーの店を開く前は日本美術の専門店を経営しており、1888年からは『芸術的日本』(La Japon Artistique)誌を発行してジャポニスムを広めた。

逆輸入
日本美術から刺激を受けたアール・ヌーヴォーは逆輸入の形で日本にも影響を与えた。
・夏目漱石の『猫』など一連の本の装幀(橋口五葉)、
・与謝野晶子の歌集『みだれ髪』・雑誌『明星』の表紙(藤島武二)
・杉浦非水のポスターなどに直接的な影響が見られる。
・高畠華宵の出世作となった「中将湯」広告にはビアズリーの影響が指摘されている。
・インテリアでは、北九州市の旧松本健次郎邸(現西日本工業倶楽部)の内装(1912年 ごろ、辰野金吾設計)にアール・ヌーヴォーの影響が指摘される。

(ウィキペディアより)
# by origa-56 | 2012-05-12 07:14 | 大正時代

アールヌーヴォーとアールデコ (メモ)


<アール・ヌーボー>
「新しい芸術」という意味のフランス語。アール、英語でアート、日本語で芸術という意味)
19世紀末~20世紀初頭の約30年にかけて、ヨーロッパやアメリカでおこった革新的な芸術運動。「産業革命以降、粗悪になった実用品に芸術性を取り戻そう!」という運動が芸術性が求められる様々な分野の作品に波及した。

ゴシック美術や、日本の浮世絵の影響も非常に受けている。

その特徴は?
つる草のように、うねる曲線を多用して組み合わせる。

ガウディのサグラダ・ファミリアはその発展系で、モデルニス様式


エミール・ガレやルイス・C・ティファニーによるガラス工芸品、花瓶などのインテリアにおける作品

ポスターではアルフォンス・ミュシャ。


タッセル邸玄関ホール(ブリュッセル)
階段室のある玄関ホールび立つ鉄を露わに用いた柱は、建物の荷重を支えているにもかかわらず、ほっそりとし、装飾と構造が一体となっている。植物の茎を思わせる柱の形態は、床および壁、天井に描かれた唐草模様とともに流動的な空間を生み出している。
(『図説建築の歴史』西田雅嗣ぐ・矢ヶ崎善太郎編 学芸出版社)より


<アール・デコ>
アール・デコは1920~30年代に起こった芸術革新運動。
デザインに凝りすぎたアール・ヌーボーに代わって、簡潔さと合理性を目指した。
やはりフランス発祥です。

名称の由来は、1925年にパリで開催された現代装飾・工業美術国際展 L'Exposition international des arts decoratifs et industriels modernes の略称から。

特徴
すっきりとした幾何学的な線とパターン化された模様。
アメリカへ波及して蒸気機関車から高層ビルまでアール・デコ様式となる。
ニューヨークの摩天楼(クライスラービル・エンパイアステートビルなど)が代表例。

日本では、朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)がアール・デコ様式の内装をほどこしている。


                         猫メール → origanmeister@gmail.com
# by origa-56 | 2012-05-10 06:05 | 大正時代

生活のリズム

4時に寝床をあげて、雨戸をソ~ッと開ける。
昨夜蒲団の中で読んだ本の続きちょっと読む。
新聞を取りにいく。見出しだけ目を通して、投稿川柳欄を一句一句見る。
机の上のPCを開く。
6時ぐらいまで、こちょこちょ動く。
7時の朝食後はTVを観つづけて、1日がボ~ッと過ぎていく。
夜の9時頃からは半睡状態。

こうしてみると、明け方の4時から6時ぐらいまでがいちばんアクティブでなんだなあ。
# by origa-56 | 2012-05-10 05:35

陸羯南(1857~1907)

正岡子規の恩人
子規は明治25年12月 陸羯南の日本新聞社に入社した。

陸羯南が子規に言った。
「いまは15円しか出せぬが、年が明けたら20円に翌年は30円、その3年後には40円だせる」

病躯の子規は殆ど出社できない。紙面への随筆投稿と投稿された俳句と歌の添削が与えられた仕事。

あまりの痛みに耐えきれずに子規が叫ぶと陸羯南は
「ああよしよし、僕がいる 僕がいる」といって手をしっかり握ってやった。
# by origa-56 | 2012-05-09 23:08 | 明治

猫メールから

                        猫メール → origanmeister@gmail.com


・Oさんへ
「老夫婦」はわが夫婦がモデルではありません(笑)
 手をつないで歩いたことなんてあったかな……
 ただ、ご近所をスキップして歩きたいという願望はあります。

・Tさんへ
 ご紹介くださった「対談 理想の死に方」読みました。
 同年代の哲学者鷲田さんのことばは考えさせられました。

 「死ぬとはどういうことか、もし明日死ぬなら何をするか
  などを繰り返し反すうし、心の中に[カ回路]を作っておくんです。
  たとえば僕は「明日死ぬ」と言われても、今日とおなじように
  スケジュール通りのことをして死のうと思っている。
  実際に可能かどうかは別として、そういう心構えです。
  この心のトレーニングは、けっして難しくはないと思います。
  

わたしだったらそのときまで、糸と針を持っていることが出来るかということでしょうね。

・Sさんへ
 同年代のご夫妻が、たとえばスーパーなどでさりげなく手をつないでいるのをみかけます。
 「ああ、いいなあ」と羨望の眼差しです。
# by origa-56 | 2012-05-09 05:20

老夫婦4

奥さんはベンチにお弁当をひろげた。
ご主人が卵焼きの一切れを口にいれる。

「今年の桜はなんだか色あせているみたいだわ。来るの遅かったかしら」
「そんなことないだろう。今朝の新聞に岡野弘彦さんの歌が紹介されていた」
「どんな歌?」
ご主人は小さなメモ帳をポケットから取り出した。

   磔刑の身を反らし立つ列島弧。血しほに染めて 花さきさかる

奥さんは黙って前方の桜を見上げた。

「覚悟のようなものだ」
とご主人は小さくつぶやいた。

「えっ?」
と奥さんが聞き返した。

「このごろあなたの滑舌が気になるのよ。聞き取れないことがあるの」
「おれも、素直に発語できなくなったと思うよ」

向かいのベンチで男が女の膝枕で仰向けに寝ている。

「おれもああいうふうに寝ていいかな」
「いいわよ」
と言って、奥さんは弁当を片付け始めた。
「冗談だよ」
とご主人は笑った。

「君はスキップできるか?」
ご主人が言った。
「小さいころしただけだけど、出来ると思うわ」
奥さんは立ち上がって、小さく跳ねた。
「向こうの水飲み場までスキップしていこうか」
「ええ、手をつないで行きましょう」

膝枕で寝ていた男が女に起こされて、
老夫婦の危なっかしいスキップを見つめた。



 
# by origa-56 | 2012-05-08 05:25

老夫婦3

「今朝方、俺の部屋に来て蒲団に潜り込まなかった?」
「いいえ。そんなことしませんよ。きっと違う人でしょう」
「そうか、違う人か……」
「きっとそうよ。心当たりあるでしょう」
「……」
「好い天気ね」
「そうさな、気持ちいいな」
# by origa-56 | 2012-05-07 17:54

老夫婦2

「おれも、同じ話を繰り返すようになったな」
「いいんですよ。私はなんど聞いてもすぐに忘れてしまうのよ」
# by origa-56 | 2012-05-07 17:50

老夫婦

1メートルぐらい後ろを歩いていた奥さんが
ふと小走りに歩み寄り、
ご主人の左腕を掴んだ。

ご主人が奥さんの顔を見た。
奥さんの右手がそっと下りていって
ご主人の手と絡み合わせた。

寄り添った二人は手をつないで
ゆっくり静かに歩いていく。
# by origa-56 | 2012-05-07 08:19

一身にして二生を経る

明治の精神というのは何でしょう、という問いかけに
桶谷秀昭氏が言う。(『震災後のことば』)
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これはやっぱり福沢が言った、「一身にして二生を経る」そういう体験でしょうね。
そういう体験構造を明治の精神というふうに言えるんじゃないですか。
僕が明治の精神ということばをほんとうに身にしみてわかるように思ったのは、
保田与重郎なんです。
保田与重郎に「明治の精神」という評論がありました。これが天心、鑑三、正岡子規
ですね。そういうひとを扱っているんですが、「明治人には顔を見ると狂気の相がある」
なんていってます。
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# by origa-56 | 2012-05-07 06:37 | 明治

和魂洋才

西洋文明は取り入れるが、和魂は守る
というのはおかしい。
西洋文明を取りれるからには、その文明を作り上げた魂が
当然あるわけでその洋魂と和魂は対峙せざるを得ない。

漱石はイギリスでそのことを思い知らされた。
和魂が根底から崩れ落ちる気分を味わった。
# by origa-56 | 2012-05-06 08:58 | 明治・漱石

文明の明治 文化の大正

桶谷秀昭氏の「明治の精神にかえれ」から。
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明治の人は、基本的に文化という言葉は使わない。
夏目漱石も福沢諭吉も文化ということばは使わない。
われわれは製法文明を模倣している。けれども日本文化は守らなければいけない
これが明治人の問題意識だった。

大正時代になると急に文化という言葉が出てくる。
文化住宅、文化鍋、等々文化という言葉が濫用された。

なぜか

日本が日露戦争に勝って完全な独立国家になった。それまでは関税自主権がなく、治外法権も課せられているという半植民地状態だった。

日清戦争後に治外法権を撤廃し、日露戦争に勝って関税自主権を得て正式な独立国家になった。
列強にようやく肩を並べたという自負心から分明ということばを使わなくなったのではないか。

# by origa-56 | 2012-05-06 08:16 | 大正時代

明治の精神

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明治元年戊辰三月十四日、1868年の世界史の中に生きる意思を宣言した極東のこの国家には、
アジアの草花の匂いがした。もっとも、草花は、多少の流血にいろどられてはゐたが、
まだその香気は消えてゐない。
                         桶谷秀昭著 『草花の匂う国家』
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明治の精神について思いめぐらしていたら
この文章を思い出した。
そうか、明治という時代は、国家に草花の匂いがしていたのか。
# by origa-56 | 2012-05-06 07:45 | 明治

The cat


「また喧嘩してきたのか。生傷が絶えないな~」
「……」


cat について齊藤英和より
A cat has nine lives. 叩いても死なぬ。
Care killed the cat. 九生ある猫でさへ苦労に勝てぬ(苦労すると寿命を縮める)
a cat in the meal 隠し事顕はる
a cat in the pan 捏造説
let the out of the bag 秘密を漏らす
see which way thw cat will jump  日和を見る(旗色を見極めて向背を決するなど)
rain cats and dogs 大雨(車軸を流す)
Who will bell the cat? 誰か能く此の難局に当たらん。
cat's sleep 仮寝
There is not room enough to swing a cat. 狭苦しいこと。
It is enough to make a cat speak. 猫も呆れてものを言ひさう。
make a cat laugh (腹の皮がよれる程)面白い
not a cat's chance 機会が全然ない    
# by origa-56 | 2012-05-05 07:18

原紙


鉄筆で一字一字刻んでいた時がなつかしい!



『SAITO'S英和』より
・become = [自動] 生ずる [他動] 似合う
       It does not become a young man to sneer at people.
        (若い者が人を冷評するのは見苦しい)


 
# by origa-56 | 2012-05-03 06:28

ホンチ

小さい頃、「ホンチ」という蜘同士を闘わせる遊びがあった。下町のガキの遊びだったのかもしれない。

バラや榊の葉っぱなどにいるホンチ(背が黒光りしている奴は強かった)を捕まえて駄菓子屋で買ったホンチ箱に入れて持ち歩き、友人たちで遊んだ。学校にも持ち込んだりもしたが当然のように禁止された。

遠州地方ではそんな蜘遊びは聞いたことがないという。



話は違いますが、『熟語本位 英和中辞典』の例を紹介してほしいとのメールを
2人の方からいただきました。

蜘蛛にちなんで
蜘蛛の巣を spider's web

さらに web に関して
a web of lies = 嘘で固めた話
web of life = 運命

なるほどと思います。
今だったらインターネットの web でしょうが、もちろんそんなのは載っていません。
  

# by origa-56 | 2012-05-02 20:49

『熟語本位 英和中辞典』


SAITO'S IDIOMOLOGICAL ENGLISH-JAPANESE DICTIONARY
齋藤秀三郎著 熟語本位 英和中辞典

漱石は明治二十三年九月帝国大学文科大学英文科にただ一人入学した。英文科は二十年にできたばかりで先輩も一人しかいなかった。学生は文科大学全体でも三十人内外。

その漱石を教えたのが英文学科主任教授J・ディクソン(James Dixon)だった。

ディクソンは熟語で英語を教えた。そして日本人のために『熟語表現集』を刊行した。漱石もこの本で学んだ。

後年齋藤秀三郎もディクソンに学んだ。
そして1915年(大正4)にこの英和中辞典を著した。(辞書は通常何人かで編纂するけれどね)
この辞書の基本的な考え方は
語と語の関係の中に語の意味がある。
動詞の語義も、前置詞や副詞との結びつきから捉えられている。

というところにあった。

前年、漱石が「こころ」を連載。辰野金吾の東京駅が完成。まさに100年前のできごと。

1936年には新増補版が岩波書店から出版された。増補版といっても齋藤版の原型を損なうことなく増補を巻末にまとめて掲載されている。

私が愛用しているのは1957年発行のこれ(第15刷)

この辞書がどこかで漱石とつながっているのかな、と思う。
# by origa-56 | 2012-05-02 05:15 | 大正時代

昭和の日


4月29日

なんだかわけもなく

白い柏餅を喰いたい。
# by origa-56 | 2012-04-29 10:50
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今日もいい天気かな?……そういうわけにもいかず……


by origa-56

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